そのI 「純粋性、高潔性のもつ美と気品」
山 口 法 美
大野治長に投影された ニヒリズムの世界
1955 年の夏頃だった。肺浸潤を宣言されて、母の郷里、宮崎県霧島山麓にある、えびの市で一年 静養していたぼくは、たまたま上京して、(渋谷だったか銀座だった か)場所は忘れたが、青木、 大神、渡辺の三人と喫茶店で会った。青木さんがぼくが回復次第、みんなで演劇のサークルを創る ということで、その準備会みたい だったと思う。
その喫茶店の一角に、ペルシャ系の家族連れがいて、まだ10才にも満たない女の子が二人程その 中に混じってた。未だいたいけない幼年にも関わらずその美貌は、店内の日本人客を魅了する程、 抜群だった。
「美しいなあ」と、呟いた、青木さんの語調は、皮肉でも、イヤミでもない、純粋な感情の表現 だった。その無防備さに、ぼくは少し鼻白んで、イラン系、ペル シャ系の子供は「悪魔の美」とい う、代名詞がつく程のものだけど、大人になるに従ってその美貌が衰えるものだ、と、こころにも ない評価を、知ったかぶりし て、披露したものだ。青木さんは、「そんなものなのかね」といいな がら、「しかし、美しいものはやはり、それで、いいものだろう」と言及した。ぼくみたい に、感 情を偽って、美しいものを美しいと受け入れない「あまのじゃく」性のない、青木さんの美観をそ の時知らされた。断っておくが、未成年のぼくには、ぼ くのコメントがもつ人種差別の感情が如何 に不平等なものか知らなかった。
美に対する青木さんの反応は、純粋そのものだった。視覚な美に関わらず、音、動き、構成、そ れも、啓示下の物品から形而上学的な美に至るまで、ご自分の捉 え得る感覚には、自信を持ってそ の美を評価したものである。その美意識が青木範夫の全作品の舞台を支える土台だったと思う。劇 詩を扱った「詩劇」三作他、 鎮魂曲「祈る」、喜劇「完了」の終戦劇、「黒い雪」「追放の夜」 「あきこ」にいたるまで、「美」を追求、その純粋性、高潔性を終始一貫、謳い上げている。 もちろん、その美観が災いして、作品の欠陥に結びついたのも事実だっただろう。しかし、欠陥 は欠陥として後で考えることとして、まず、その長所から思索していくのが順序だと考える。
実は渡米後20 年余の時期に、上京して渋谷の「ベルジンの工場」を訪問したときのこと、久しぶ りのばおっくの公演パンフを手にして、思わず、「ぼくたち、奇麗なことをし てたんですね」と呟 いてしまった。そしたら、「奇麗すぎたんだな」と一言、吐き出すように言って、暫く、口を聞か なかった。その沈黙を、今でも忘れられな い。この文章はおそらく、この沈黙をもって結論するこ とになるだろう。
美」あるいは「美しいもの」は、青木範夫の世界では、天然・自然の美に託して、人間の知性が 拵えた造形美を、形而上学の空間で表現したものではなかったか と、ぼくは思っている。人間の社会は人の繋がりによる共同体であって、伝統的な「形」があった。能、狂言、歌舞伎という文化的
なかった。その沈黙を、今でも忘れられな い。この文章はおそらく、この沈黙をもって結論するこ とになるだろう。
美」あるいは「美しいもの」は、青木範夫の世界では、天然・自然の美に託して、人間の知性が 拵えた造形美を、形而上学の空間で表現したものではなかったか と、ぼくは思っている。人間の社 会は人の繋がりによる共同体であって、伝統的な「形」があった。能、狂言、歌舞伎という文化的 遺産を含めた、共同体の、政 治、経済、文学、教育、家系、部族にいたる体系の「形」にこだわっ た。その「形」に「美」の観念、もしくは哲学的な定義を移植した。
日本には地理的空間に文化的価値評価を投影した高低、上下の感覚があった。関西を高、関東を 低、西が都で東は在野。都に住む高貴な人と東で土を耕す百姓の 民と言った具合に。詩劇「淀の 方」はこの通称的な感覚を、移入して、関ヶ原の内戦を、関西/関東を、旧/新勢力の対抗と見立 て、古典的家柄と新興大名の武 力、前者がすなはち、「王」、後者が「成り上がりもの」の対決を 描いたものだと言えるだろう。徳川家康は「美しきもの、形あるもの」を、憎んだ人物として 描か れている。「関東は野武士の群れ」と、自認する家康は燃え落ちる大阪城を前にして叫ぶ。家康 鉄砲方。たまをこめよ。撃てよ。 燃えあがる天守と、城を出るものは、逃げると戦うとを問わず、うち殺せ。 関東方は情けを知らぬ。美しきもの、形あるものは、ことごとくほろぼせ。 撃て。撃つのだ。
−− 詩劇「淀の方」三幕千姫は徳川家康の孫、家康の土の匂いを嫌った、淀の君は「城を出たい」と、懇願する千姫にこう 言う。
淀の方そなたはやはり家康の孫。そなたには、土の匂いがある。草のかおりがある。淀は、そなたをはじ めて憎く思いました。 一方、淀の君は自らの高貴な権威を如何に評価しているのか。その答えが、下記の大野治長との会 話に暗示されている。 淀の方 加藤肥後守は、たとえ一大名としてでも、豊臣家を生き残したいと、家康に命乞いをしました。 治長 二条城に、上様御名代を名乗りましたおり。 淀の方 淀は、清正に怒りました。 治長
豊臣のお家が、
淀の方淀は、清正に怒りました。 治長 豊臣のお家が、 淀の方 ほろびる、ほろびぬを問う淀ではなく、 治長 音高く折れる梅の気高さこそ、 淀の方 ただしだれ、時を待つ柳よりも、 治長 静かにすべって土にしみいく雪よりも、 淀の方 生まれながらの王のとるべき道と、 治長 御母公さまは、そう仰せられた。 淀の方 この淀は、そのように信じました。 治長 しかしながら、治の日ざしをうけて、雪はようやくとけかかっております。 淀の方 先を急いで、自ら枝を折ってはならぬ。 治長 治長はそのようにお願いしておりました。 淀の方 しかし、治長殿、それはかなうことでしょうか。
−− 詩劇「淀の方」 ここでは、王であることと、百姓の身分であることの究極的な狭間が語られている。
美はその高貴な気品を損なわないように滅びて、消えていく。淀君はそれを、「音高く折れる梅 の気高さこそ、生まれながらの王のとるべき道」と、定義する。 すなはち、絶対的な美の形は、或 いは規格は、それが完璧であるが故に滅びなければならない。仮にその生命が、夜空に開く花火の
ここでは、王であることと、百姓の身分であることの究極的な狭間が語られている。
美はその高貴な気品を損なわないように滅びて、消えていく。淀君はそれを、「音高く折れる梅
の気高さこそ、生まれながらの王のとるべき道」と、定義する。 すなはち、絶対的な美の形は、或 いは規格は、それが完璧であるが故に滅びなければならない。仮にその生命が、夜空に開く花火の ように一瞬の美であったとし ても。王であることと、百姓の身分であることの究極的な狭間ではあ る。百姓には守るべき気品はなくても、生き延びることが生命力であり、その価値評価にな るとい うことではないか。青木さんは土の力と匂いは充分に知っていたと思う。日本の歴史が徳川家康を 後代の権威者として記録した事実があるのだ。
青木さんがペルシャ系の幼女を観て、その美が失われることがあるといわれても、現在形の形で 容認できる寛容性が解明される。正直に言う。ペルシャ、イラン 系の子供の美貌が年を経て衰える という事実は全くない。ぼくが勝手に想像した、少年時代のあさはかな、人種差別の感情でしかな かった。無知だったのだ。
規格された美は青木範夫の作品よく出てくる。詩劇「赤穂の人々」の武士社会に規格された名誉 を守ること、「仇討ち」という、不法を導入して、守らなければ ならない不文律に従う。顔世はそ の世界を否定しようとした、新しい規格をもった女性として描かれていえる。千姫とは違い逃げ切 ることができなかったのが悲 劇だった。
絶対的な美の規格を造形して、これに忠実であろうとした、劇作家、青木範夫は集団を構成する メンバーに大野治長という役を創作したことではないだろうか。 治長はユニークに書かれている。 歴史家も同時代の仲間からも嫌われた人物だが、この人物に青木範夫独自の生命力を与えている。 けっして、規格にはまった美 しい人格としては書かれてはいない。あたかも、詩劇「赤穂の人々」 の顔世みたいに、登場人物からは敬遠された人物であることが共通している。顔世と治長と の違い は、治長がニヒリズムに徹することができた事情だろう。治長には規格された価値観念を批判する 個人として、自由を追求する力強い感覚があったからだ ろう。青木さんは(これは山縣知彦氏に確認しなければならないが)ドイツ文学、哲学をへて、文学の世 界に入ってこられている。ぼくの記憶には、ニヒリズム哲学の根本になっている自由の感覚を諄々 と聞かされた思い出がある。
ぼくがW杯に現れたナショナリズムにこだわったのは、国体、もしくは共同体の象徴として生き ている規格の中で、押しつぶされてしまう個人の絶望感からだったが、もし、青木さんが生きてい らっしゃったならば、ぼくが言いたいことを、判りやすく話して頂けたものだと信じている。
青木さん創作の大野治長に、ニヒリズム(虚無主義)と定義される思想が導入されているのでは ないかというぼくの解釈を今少し言及してみる。青木さんの口癖 は、ニヒリズムには既成の価値、 伝統的権威、造形美、善、悪、正義、真理に対決して、これを積極的に否定する信念と、撃ちひし がれて何も信じなくなるとい う、受動的なニヒリズムがあること。しかしながら、青木さん自身 は、ドイツの哲学者、ニーチェが提唱した「前向きの、行動的なニヒリズム」に価値を見いだ して いることを説いたものである。キリスト教文化にどっぷり浸った、西洋文明、文化、文学を批評し て、「神は死んだ」というモチーフを掲げて、新たな価値 観を促したものだ。
青木範夫の作劇は題材は日本歴史の一部ではあっても、文学的な試行は西洋の文学が過渡した、 カミユの「不条理文学」、サルトルの「実存主義」、エリオッ ト、ジョイス、ベケット、という一 連の「意識の流れ」「不条理演劇」にいたるまでの知的経験を踏まえてきたといえよう。大野治長 の誕生は必然的なものだっ たのだ。
日本には伝統的に、主従、子弟、親子、という繋がりに上下の人間関係が規定され、規定にもと
ずいたシキタリなるものが評価された。その複数の人の繋がりは ひいては自分の所属する共同体の
カミユの「不条理文学」、サルトルの「実存主義」、エリオッ ト、ジョイス、ベケット、という一 連の「意識の流れ」「不条理演劇」にいたるまでの知的経験を踏まえてきたといえよう。大野治長 の誕生は必然的なものだっ たのだ。
日本には伝統的に、主従、子弟、親子、という繋がりに上下の人間関係が規定され、規定にもと ずいたシキタリなるものが評価された。その複数の人の繋がりは ひいては自分の所属する共同体の 中で自分個人の位置ずけが行われ、個人は集合体の一員としての責任が問われてきた次第である。 大野治長は大阪夏の陣、関ヶ 原の戦いで豊臣方の家老を務めた、実在の人であるが、青木さんはこ の武将を上手に書き換えて、淀君を愛するひとりの男が、大義名分という既成の習わしの為 ではな くして、自己の自由意志をもって愛人の志につくすテーマを創作したしだいである。ここでは治長 が主役、この役を青木さんご自身おやりになったもの だ。
過去数回、ばおっくのMLで、ぼくはキリスト教に対する疑問、ベケット、ピンターの不条理劇を テーマに取り上げてきた。すなはち、青木範夫の文学観、演劇観を知る為には必要な資料的要素で あると考えていたからでもある。 ぼくもカクトスの一員として、サボテン加工の仕込み、朝夕工場に通ってしてきたことがある。 「ガラス張りの経営」をモットーにして、あの頃の青木さんには, 従業員の一人一人が裕福になって もらいたいという、理想があった。知的に美しい動機でもあった。 「奇麗すぎたんだな」と一言、吐き出すように言って、暫く、口を聞かなかった青木さん。あれ は大野治長が吐き出した、捨てゼルフではなかったか、と、考えるしだいである。
青木 範夫 論 ー その II
「本質」と「実存」が対決する EXISTENTIALISM. 山口 法美
青木範夫は芸能、文学を愛したが、特殊な才能、技能を保存する、職人気質の集まりを嫌った。
バオックを劇団と呼ばず、サークル。ベレー帽をかぶるという、演劇、文学青年という「見かけの」身なりすら否定した。芸術のもつ技術の純粋性を志す故に、特殊な団体を象徴させる服装が、芸術そのものを不純にすると考えたのであろう。青木さんらしい潔癖性だった。
こんな思い出がある。ある年、東京に不幸があり、三日ほど上京しなければならなかった。ぼくが教便をとる、サンフランシスコの州立大の新聞部から頼まれ て、東京で販売されている商業英文の日刊紙を二・三種ほどもってきてくれと頼まれたので、JR線の販売店で買ってきた JAPAN TIMES を手にしていたのがいけなかった。恵比寿駅の改札口まで迎えにきてくれた青木さんが、一目見るなり、「何だ、お前。そんなもの電車の中で読む必要があるの か」といわれた。如何にも、不愉快そうな面持ちだった。
公衆の前で洋書を開いて読む日本人の衒い、読みもしない西洋の雑誌を化粧品のように身につけて歩く学生や教授を徹底的に軽蔑するのが青木さんの癖だった。 「黒い雪」という、作品がある。息子を失ったある大学教授の話であるが、吉井教授は息子の告別式で、日本語、英語、フランス語で悼辞を読む学者として書か れている。ひとりも西洋人の参列者は居ないのにである。
学問を「知的お化粧」のように飾り立てる学者を、見事にカリカチュアすることでは青木さんの右に出るものは居るまい。それは、あたかも、ご自分が、ご自分で、からかうように自虐的でもあった。真摯で潔癖な学者であろうとする、自意識故のことだったのかも知れない。
1949年の夏、「三鷹事件」、「松川事件」とよばれた、国鉄構内での無人列車暴走、路線上転覆の事故が起こり、「下山事件」と共に、左翼団体による組織 的なテロリズムだと騒がれた。青木範夫はこれら一連の事故を暗示させながら、革命を理論的に正当化しようとする善意の男女の行為が、死傷者を伴った暴力の 現実と正義の狭間で挫折する「曄子」を創作した。これも革命家が革命という理論を純正に守る行いに徹したが故に、為政者としての左翼政治団体の職人気質に 汚染する指導者との対立にしなければならない、「実存」と「本質」の対決がテーマになっている。言うまでもないが、これはサルトルの「汚れた手」のテーマ である。ラスコリニコフの暗号名で、「党」の指導者エドレルの秘書役となり、これを暗殺するユゴーはいう。
「しかし、なんてまあきみは、そうも純粋さに固執するんだ。なんだってそう手を汚すことを怖れるんだ。そんなら純粋でいるがいい。だがそれがなんの役に立つ?それなら、きみはなぜわれわれのところにきたんだ。純粋さとは、行者や修道士の思想だ。きみたちインテリ、ブルジョワのアナーキストはの純粋さを口実にしてなにもしないのだ。なにもしない、身動きせず、からだに肘をつけ、手袋をはめている。わしは、このわしは汚れた手をしている。肘は汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。それがどうした? きみは精錬潔白に政治をすることができるとでも考えているのか?」 以上のセリフが、純粋な革命闘士ユーゴを動揺させる。
青木範夫著の 「曄子」の一幕にこんなシーンがある。
鉄道爆破のサボタージュが成功して、その爆破を自ら仕掛けた、村上啓が彼等のアジトで、しきりに手をこするのを見ながら、労働組合から派出してきた木村留夫がこう労う。
木村:まったく労働者の我々の方が恥ずかしい位ですが、・・・、でも、本当に村上さん、大変だったでしょう。
村上:雨がふってきたのがね(さっきからこすっていた手をみて)ひどく汚れて、どうしてもとれない(たちあがって)洗ってくる。
村上おくに入る。
中山:村上さんの汚れた手はすばらしい。ぼくもあんな風に汚したい。
もし、サルトルの「汚れた手」を読んだものが観客の中にいて、このセルフを聞けば、その「汚れた手」がなにを意味するのか直ぐに判るだろう。「曄子」の著者は意識してその台詞を、村上に言わせている。
ところで、青木範夫の「曄子」は、サルトルが提唱した「実存主義」なるテーマが一枚岩のように、其の土台にあるのではない。ここにはカミユの「正義の 人々」の構成の骨格にもなっているのだ。カミユの「正義の人々」は、1905年のモスクワで、セルゲイ・ロマノフ大公を爆殺した カリャーエフ と其の暗殺を計画したテロリスト達の史実を劇化したもの。ステパンを除いて、登場人物はいずれも実在した、(カミユが言うところの)正義の人々だ。実話を 下敷きにはしているが、これは、カミユの「不条理文学」を代表する一編でもある。その「正義の人々」を下敷きにして、青木範夫は西條 曄子の贖罪を書いた。ゴッホの「炎の人」を、読み合わせている頃、ぼくたちは必死になって「正義の人々」を読んだものだった。青木範夫がニーチェのニヒリ ズムを大野治長に移植したのではないかという仮説は申し上げた。ニーチェは実存主義を唱えて、サルトル、カミユに影響を与えた思想家でもあった。青木範夫 もその一人だったということが言えるだろう。
青木範夫著「曄子」(ばおっくライブラリー 1962 年6月発行)に、「『曄子』は非情の作品である」で始まる、山本清氏の「あとがき」がついている。「『曄子』は絶望の作品である」という言葉が続く。そし て、「『曄子』は象徴の作品である」と表現、作品は『曄子』であるにも関わらず、書かれているのは『村上』を語ることの多い作品だと述べる。村上自身、そ して、曄子の言葉から、村上について書かれている。
−−− そして、それは、村上を語るというよりも、村上という人間を浮き彫りにすることによって、『曄子』を −− 人間を語ろうとしている。−−−
ぼくも、山本氏の解釈に賛意を表したい。
村上: 道を求め、神に到達する道は必ずしも宗教家の道だけではないのだ。無の世界を無であると受け 取ったまま、なお、この世界に生き永らえて、自らに厳しい倫理を確立しようということは文学者の道なのだ。
曄子:それが、地上にしがみついていたい為の文学者の不徹底であり、卑屈さであるということが, 今の私には良く分っているの。
曄子の言葉はもちろん彼女自身の言葉ではない。作者、青木範夫が、曄子の口を借りて自問自答する次第である。「神は死んだ」という表現で、キリスト教が規 格する万物、絶対無比の創造神の存在を否定して、「超人」という人格を提唱したのもニーチェである。青木さんには人格を神格にまで昇格される、規律、精神 力があること、「神に到達」できる道があるのではないかという、期待があったのだと思う。
ばおっくのML でぼくがかってキリスト教バッシングをしたのは、実は、ニーチェの考えた超人も、青木さんが考えた「神」も、キリスト教の神格とは、根本的に違うものだと 思っていたからである。キリスト教では「神」を見習うという、おおそれた、野心を戒める。人は罪深いもので、それ故に、贖罪が強いらる。罪深いまま、罪を 購って生きていくしかない次第である。だから、村上がならんとしたのは、ニーチェの「超人」を意識していたからだと思う。
カミユの「正義の人々」の主人公、 カリャーエフ を牢獄に訪ねてきたのがセルゲイ大公夫人だが、夫を殺したカリャーエフに殺人者としての告白をして、神に救いを求めるよう勧める。それができれば、大公夫人の名前で恩赦を受けさせようとまで述べる。何故、大公夫人はそんな交換条件を申し出たのか。それは彼女が真摯なキリスト教信者であったことを意味する。すなはち、「無神論者」であることを公言したカリャーエフは、「正義の神格」、革命家の名前でセルゲイ大公を粛正しているからである。その行いは、キリスト教の教会を侮辱するもので、伝統的なキリスト教の教義に違反するからだろう。同じ牢獄で知り合った、フォカと云う名の殺人犯に、カリャーエフは社会革命で出来上がった世界こそ、神の世界に匹敵するもので、神の居ない世界では、革命しかないことを、カミユは言わせている。すなはち、革命家は「神の業」をなすもので、それ以外の何者でもないことを説得する次第である。
カリャーエフ とセルゲイ大公夫人の対話は、あたかも、村上と曄 子のそれのようだ。村上は文学者としての道を説き、曄子はキリスト教者としての道を弁護する。村上の愛は「神の愛」に匹敵するもので、「人の愛」に堕落さ れるべきではない。その混乱の責任は村上にあるだろう。村上は村上を愛している筈のが曄子がなぜ、伊原木に嫁ぐのかが判らない。曄子が村上を愛していたの を知ってはいたものの、その愛は男女の愛ではなく、「自らに厳しい倫理を確立しようとする文学者」、すなはち師への愛であるから、プラトニック、精神的、 「神への愛」、ひいては「アガペー」と規定される宗教的な愛でもある。村上の独断は当然ながら、曄子を混乱に追いやる。二幕後半の狂乱にも似た言葉の交錯 はあたかもこころの悲鳴であり、とても、とても、直視出来る舞台ではない。これは、まさに、イプセンの「ブラン」、オニールの「夜への長い航路」を思わせ る悲劇、山本氏をして言わせた、非情で、絶望の芝居である所依だろう。
村上はポケットにもっていた、五年前仲間に分けておいた自殺用の薬を叩き付けて、退場する。作者はそのつもりではなかったかもしれないが、ぼくには、あれ は、村上が(無意識に)曄子に与えた贈り物ではなかったかと、思えて仕方が無かったのを覚えている。村上は神になりたかったのではないか!
通俗なことだが、カトリックの修道女は、キリストの花嫁になるという象徴で、その誓願式では花嫁衣装を着る習慣がある。象徴的だが、修道女はキリストに嫁 ぐという意味があるのだろう。純正な学者で、純粋な理論で生きる革命家であろうとした村上が、曄子を女として愛そうとするならば、かならず、破綻が来る。 村上はひとりの女を愛し、その女を仕合せにできる男ではなかった。作者、青木範夫は何故、「不能な」村上をそこまで、憎まなければならなかったのか。
ちなみに、「曄子」には、永遠の処女という副題がついている。
(07/25/2010)